原爆の朝、いい忘れた“ひとこと”
人生には、さまざまな別れがあります。
私にも父との死別、級友の自殺、恋人との実らぬ恋――など、胸をひき裂かれるような、悲しい思い出がいく
つかあります。そんな中で、原爆で死んだ祖母との“別れ”は、生涯、悔いが残るものでした。
――あの朝、せめてひとこと「ばあちゃん、ありがとう」と、なぜいわなかったのか、毎年夏が来るたびに、
胸がしめつけられるように痛みます。
* * *
昭和二十年八月六日、世界で最初の原子爆弾が広島に投下――。
旧制中学二年生だった私は、学徒動員にかり出され、安芸の宮島近くにある軍需工場へ出かけました。午前六
時すぎ、寝ぼけまなこをこすりながら、ムスッとした顔で家を出たのです。
「暑いのに、ご苦労さんやな」。玄関先まで見送ってくれた祖母に、ろくろく返事もしませんでした。まさ
か!これが今生の別れとなろうとは…。その時は、夢にも思いませんでした。
当時、私は、祖母と二人きりの生活でした。銀行員だった父は、その前年暮れに病死、未亡人となった母は、
弟の学童集団疎開のつきそい係に志願し、幼い妹を連れて県北・鈴張村のお寺に行っていました。
原爆投下の前日、八月五日は日曜日でした。休日とあって、ご近所のお母さん達は数人連れだって、わが子に
会うため、その寺へ出かけることになりました。祖母は、これに同行しました。久しぶりに娘(私の母)や孫に
会えるのです。
「せっかく行くんじゃけん。今晩は向こうのお寺に泊まってこようかなあ」
「ああ、ええが。ボクのことなら心配いらんけん。ちゃんと起きて行ってくるが…」
こんなやりとりがあって祖母は帰らないつもりで家を出ました。ところが、ご近所の皆さんには、それぞれ家
庭があります。夜になって、みんなの帰り支度が始まった時、祖母は急に心変わりしました。あとから考えて、
ここが運命の分かれ目でした。
「皆さんと一緒に、連れて帰ってもらう」
といい出したのです。多分、一人で留守番している孫のことが気になったのでしょう。母は何度もひきとめた
といいます。しかし、祖母は、いい出したら、決してあとへ引かない性分でした。つねに、前向き、チャレンジ
精神いっぱいの人でした。
お寺から可部という駅まで八キロ歩いて出ました。そこから広島市内の横川駅まで電車が走っています。とこ
ろが、終電車はすでに出たあとでした。
「仕方ないわね。歩いてはとても帰れんし、引き返してお寺に泊めてもらいましょうよ」
みんなはUターンすることになりました。ここも一つの転機、皆さんと一緒に、お寺へ引き返していたら原爆
にあわなくてすんだのです。人生は紙一重、ちょっとしたことで、すべてが変わってしまうものです。
ひき止めて下さったお母さん達を振り切って、なんと!広島まで二十数キロの夜道を一人で歩いて帰ったので
す。気丈な祖母でした。
戦争のまっただ中、夜は灯火管制といって、街灯はすべて消し、家の中の光も外にもれないように黒い衣で目
張りなどしていました。まっくらな田舎道を必死に孫のことを思いながらトボトボと帰ってくる祖母の姿を思い
浮かべると胸がはりさけるように痛みます。
私は“ばあちゃん子”でした。毎晩一緒に寝ました。寝物語が楽しみで、石童丸の話、巡礼あゆみの話など胸
ときめかせながら聞きいりました。芝居や、お寺などあちこちと連れていってくれました。人生最初の“恩師”
でした。
家にたどりついたのが、午前四時ごろではなかったかと思います。ぐっすり寝込んでいた私には、はっきりし
た記憶がありません。祖母はそのまま一睡もしないで私の弁当を作ってくれたのです。
そんな祖母に、家を出るとき「ありがとう」「ボクのこと心配で、歩いて帰ってくれたんやね」「うれしいな
あ」――何かひとことでも言っていれば、胸のつかえは、少しはいやされたと思います。
一発の原爆で、ヒロシマは一瞬にして廃墟の街と化しました。まさに死の街でした。行けども行けども一面の
焼け野原。熱線に焼かれ猛火に追われ、川の両岸はおびただしい死者の群れ。「水を、水をくれ」とうめいてい
る人も何千人、いや何万人だったかも…。
家にたどりついたわが家の焼け跡、そこには、まっ白い骨になった祖母の変わり果てた姿がありました。涙が
とまりませんでした。ひとことをいいそびれた口惜しさ、無念さは、いまなお強烈に脳裏に焼きついています。
――いまの若者は「ありがとう」という“ひとこと”をなかなかいいません。家庭での、日常のあいさつが欠
けているように思います。「おはよう」「行ってきます」「ただいま」「おやすみ」――こんなひとことを大切
にしたいものです。
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